家康は言った。「明君良将は他人の良いところを取り入れて国を治める。むかし源頼朝は藤原泰衡を討って陸奥を平らげ、その地を支配するようになったが、そのとき「秀衡のときの如くすべし」と書いた高札を各地に掲げたため、奥州はすぐに治まった。その高札はいまでも残っていてわしもかつて見たことがある。頼朝という人は良く人の良いところを用いる人だった」。家康もまた甲斐を領するようになると武田家の法を使い、関東を治めるようになると北条家の旧法に従った。そのため新しい領地も早く治まった。ただ、年貢に関してだけは三河の法に従って軽くしたので、民はますますその徳に従った。