シンシアリティ(sincerity)という言葉があります。誠実さや真摯さを意味しますが、近代的な自己にとって、これはとても重要な価値です。嘘偽りのない透明で清廉潔白な内面性こそが理想的な自己なわけですから。一点の曇りもなく正直であり、真面目であれ、というわけです。
しかし、本当にその必要があるのでしょうか。「嘘も方便」と言うように、状況によっては嘘をつかなければならない場面を、私たちはしばしば経験します。
イマヌエル・カントが興味深い話を提示しています。友人が「殺人者に追われている。かくまってくれ」と言ってきた。その後に殺人者が来て「お前はその人をかくまっていないか」と言われたら、どうするかという問いです。嘘をついてはいけないという原則に従って、正直に答えると、結果的に友人は殺されてしまうかもしれません。ところが、カントはそれでも嘘をつくべきではないと言うのです。
一方、『論語』にはこんな話があります。ある人が「うちの村には正直者がいる。父親が羊を盗むと、子どもがそれを訴え出た」と言ったのに対して、孔子が、「うちの村は違う。子は父のために隠し、父は子のために隠す」と言ったというものです。この議論は、近代中国においては厳しく批判されて退けられてきたものです。中国の後進性の象徴であるといわれました。