ニージーとルスティチーニが「この10の保育園でお迎えの遅刻はどれくらい起きているのだろう?」と考え、調べた結果がこのグラフで、週ごとの遅刻
の回数を表しています。10の保育園で平均して、6回から10回の出迎えの遅刻がありました。それから保育園を2つのグループに分けました。白い方は対照
群で、何も変更しません。一方黒で表わした方の保育園では、「今後契約を変更します。子供の出迎えが10分以上遅れたら10シケルの料金を請求します。言
い訳は聞きません」ということにしたのです。そうしたところ、それらの保育園ですぐに変化が現れました。その後4週間に渡って、お迎えの遅刻は増え続け、
罰金を設ける前の3倍にまで達し、それ以降、2倍と3倍の間を上下しました。何が起こったのかは一目瞭然です。罰金が保育園の文化を壊してしまったので
す。罰金を設けたことで、先生に対する借りは10シケルの支払いでちゃらになるというメッセージを、親たちに伝えることになったのです。そのため親たちは
罪悪感も社会的な気兼ねも感じる必要がなくなりました。親たちはこう思ったのです。「10シケル払えば遅れて構わないの? そりゃあいい!」(笑)私達が20世紀以来引き継いできた人間の行動に対する説明によるなら、人間は「合理的で自己の利益を最大化する主体」です。この説明通りなら、保育
園に契約がなければ何の制約もなしに行動したはずです。しかしこれは正しくありません。人は契約的な制約がなくとも、社会的な制約に基づいて行動するので
す。そして重要なのは、社会的制約は契約的制約よりも親切な文化を作るということです。ニージーとルスティチーニはこの実験で罰金を12週間続けた後、言
いました。「では終わりにしましょう。罰金はもう無しです」。そして実に興味深いことが起きました。何も変わらなかったのです。罰金が解除された後も、罰
金によって壊された文化は壊れたままだったのです。経済的な動機づけと内的な動機づけは相容れないというだけでなく、その矛盾は長期間持続することになる
のです。だからこのような状況を作るにあたって重要なのは、親たちが先生に支払うというような経済的取引に依存する部分はどこなのか、そして社会的取引や
親切に頼るようデザインされるのはどこなのか、よく理解しておくということです。