膨大な撮影フィルムの中からカットを選び出し、無限にある組み合わせの可能性の中から答えを導きだしていく作業。これを「編集」という。高度なアートフォームであり、その能力やセンスを持つものには高い敬意が払われている。「編集」に方程式やセオリーなどない。ただ感覚だけだ。この映画はそんな「編集」にスポットを当て、なぜ答えやセオリーなどないのか教えてくれる。映像に携わっていて、もしまだ見たことがないなら、一度は見たほうがいい。きっと編集がしたくてうずうずしてくるだろう。
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編集の魔術を教えてくれる貴重なドキュメンタリー。編集の歴史を紐解き、いつどうやって編集が始まり、どう発展してきたかを、超有名エディターや監督の証言を交え描いていく。
このドキュメンタリー映画はNHKとBBCの共同制作とクレジットされているが、主にハリウッドでの「編集」の発展を追っている。まさに映像の歴史そのものであり、貴重なフィルムやインタビューばかりである。ただし、編集の秘訣を教えてくれる、と思って見ると肩透かしを食らうかもしれない。が、それは当然である。というのもこの映画の核心がつまり、「編集にセオリーはない」ということだからだ。フィルム1本1本に固有の編集の方法論があり、そして、監督やエディターひとりひとり、どう編集するかはその人次第なのである。
ところが、そのセオリーが昔はあったのだそうだ。まずは「引きのマスターショット」。次に「会話する2人の2ショット」。そして「それぞれの顔の抜き」。必ずこの順番で編集しないと失格の烙印を押されてしまったというのだ。おもしろいことに、ハリウッドが培ってきたこれらのセオリーを崩していく波は、ソ連映画やフランス「ヌーヴェルヴァーグ」とアメリカの外で起こった。ハリウッドの映画監督たちはその映像を見て衝撃を受け、羨ましがったのだという。
例えば「編集されたのが目立たないスムーズな編集」。アクションつなぎというヤツだ。言葉で説明するのは難しいが、ある人物が振り向くというアクションを、寄りと引きの2つのショットで撮ったとすると、その2つのショットをつなぐときに振り向く人物の角度は同じにしてカットを割るという編集方法のこと。見ていて非常にスムーズで、編集点を意識することがない。ところが、この編集法が当然と考えられていたハリウッドにソ連映画が編集点むき出しの映像を作り衝撃を与える。いかに「常識」や「セオリー」が文化の停滞を生むかよく分かる。
僕自身の経験でも、「編集のセオリー」をぶつ人は多い。「こういうときはこう編集するんだ」「そんな編集ありえない」とか。そういう人物がいかにイカサマか、この映画を見ればよく分かる。もしそういう人と出会ったら、「カッティングエッジを見てください」と一言いえばいい。
さらに付け加えたいのが、よく言われる「きもちのいい編集」というのがいかに危険か、ということだ。二言目には「気持ちよい編集」って言う人がいるけど、あれ、やめたほうがいい。それこそ「文化の停滞」の第一歩だからだ。そんな既成概念や慣れは常に忘れようとしないと進歩がないと僕は思う。
この映画のもうひとつの魅力は、編集方法を教えるハウツーものではなく、エディターという人間にスポットを当てている点だ。たいていのエディターはロケ現場に行かない。俳優にも会わないことも多いのだという。現場に行くと苦労したカットを必要もないのに使いたくなったり、俳優はアップショットを使ってほしがるものだそうだ。そうなると、フィルムを客観的に見られなくなってしまう。エディターとは、映像制作において最も客観的に、無機的にフィルムと向き合う存在なのである。
いっぽうでエディターは、世の中でもっともワガママな部類の人間が多い映画監督と、何日も何週も何カ月も、時には何年も付き合わなければならない。人間性がむき出しになる瞬間もあるだろう。そんななかいかに葛藤を克服していくのか、この映画では描かれていて、とても興味深かった。
この映画はハウツーものじゃないし、とある映画の編集マジックをステップバイステップで解き明かしてくれもしない。だから、これを見たからといって編集がうまくなるわけでもない。
が、確実に言えるのは、エディターもまたストーリテラーであるということ。むしろ、最もストーリーの構築において重要な存在かもしれない。脚本がスタート地点で、編集こそがストーリーの終着点だ、とタランティーノは言っていた。
これを見ると今すぐ編集したくなる。編集の魅力が満載の映画だ。編集だけでなく、どんなかたちでも映像に携わったことがある人なら、必見です。そしてクレジットの最後に出てくるインタビューが洒落ていて、この映画の編集もイケてるなと思った。