ソバが日本へ伝来したのは、奈良時代以前です。しかし、ソバは長い間、食料としての地位を確立できませんでした。農民が飢饉に備えて僅かに栽培をする程度にしか認識をされておらず、あくまでも雑穀の一種でしかなかったのです。それに最大の理由は、ソバを美味しく食べる方法がまだ無かったことです。
蕎麦掻き(蕎麦練り)に対して蕎麦切りという言葉が生まれ、現在の麺の形態になったのは、16世紀末頃。江戸時代になる直前のことです。1643年(寛永20年)に発行された『料理物語』(作者不詳)という料理本に、はっきりと、「蕎麦きり」という名前が出ています。私の手元に、「料理物語・考」(江原恵著 三一書房)があります。原本の解説が掲載されており、「第十七後段之部」に「うどん けいらん 切麦 葛素麺・・ ・・蕎麦きり 麦きりは・・ 」とあり、うどんやそば切りについて書かれています。従って、料理物語が発行された頃には、蕎麦切りという麺の形態で蕎麦喰いが定着していたことが分かります。
では、それよりもう少し以前に遡って、わが国の蕎麦店の発祥について調べてみましょう。江戸蕎麦の老舗で、江戸時代から続いている「のれん御三家」と言えば、「藪」、「更科」と「砂場」です。この内、最も古いのが大阪発祥の「砂場」です。江戸蕎麦のルーツが実は、大阪にあったというのは面白いでしょ
1583年(天正十一年)、豊臣秀吉は、大阪築城を開始。そして、大阪市西区あたりに築城のための資材蓄積場を設けたのです。この場所は「砂場」と呼ばれていました。当然、工事関係者がたくさん集まって来るので食堂が出来ます。「津の国屋」「いずみや」という蕎麦屋が出来ました。この2店も「砂場」と呼ばれました。この「砂場いずみや」が現在の砂場の元祖であり、本邦・江戸蕎麦のルーツです。
その後、砂場は、江戸へ進出しました。砂場系で最も古いのは、「南千住砂場」と「巴町砂場」。この南千住砂場から幕末に「室町砂場」と「虎ノ門砂場」が分岐しました。
虎ノ門砂場は、暖簾や看板に「大阪屋」の文字が入っており、大阪が発祥である歴史を名前に残しています。