アンドロイドというのは人間に似たものという意味である。そのように「……oid」という語尾は「……に似たもの」という意味になる。デパートなどで見かける、スカートをはかせるための尻だけのマネキンは「オイドイド」である。
小松左京が連発するそんなギャグでわれわれが腹をかかえて笑いころげていた時代はもう、ずいぶん昔のことになってしまった。星新一、半村良も故人となり、SF第一世代は残り僅かとなって、あの1960年代の熱気と繁栄を取り戻すすべや今はなし。
われわれが学んだのは、第2次大戦中から戦後にかけて書かれたアメリカSF黄金時代の作品群で、それらが日本に紹介されたのは十年も経ってからだったが、いち早くこれを読んだ小松左京は「SFに比べたら日本の純文学なんかメじゃないぞ」と文学仲間に訣別を宣言する。アメリカSFの影響は大きく、第一世代は当然のようにSFを文明批評として捉えた。この時期、われわれが主に描いたのは資本主義経済や科学技術文明の自走による人類の運命だ。
小松左京は社会学、自然科学、哲学などの知識を生かして、それまで諷刺を利かせた短い作品で人気を得ていた星新一のショートショートによって穴埋め的なエンターテインメントと思われていたSFを別の方向へと向かわせることになる。もしこの時に小松左京がいなければ、以後もSFは軽視され続けていたことだったろう。ほんとに危なかったのだ。この先人類はどうなるのかという大きな問いかけをする小松左京という存在がなければ、それ以後の日本SFの確立は困難だったに違いない。
われわれは小松左京から多くのことを学んだ。これぞSFの醍醐味と言えるペダンチックな架空理論の語り口、「鬼面人を驚かせるていの」と批評家に揶揄されもした哲学的な凄いアイディア、そして科学知識に裏づけされたリアリティを伴って日本を沈没させてしまう壮大な力業。これらを試みた誰もが彼にはかなわなかったのである。
小松左京のロマンチックな側面も語らねばならない。ハードな作品も書く一方で、小生などにはちょっと恥ずかしくて書けないようなロマンチックな作品群も彼にはある。長篇でもよく朗朗とロマンを謳いあげるようなラストを書いている。今度の災害に対しても彼には「日本人は必ずこの困難を乗り越えるだろう。自分は日本人の力を信じる」という発言があった。破綻している資本主義経済と両輪のようなテクノロジーの自走による今回の災害から、過去に書いてきた文明批評SFの延長で小生などは人類の絶滅は明らかだと考えているのだが、多くの「未来論」や「終末論」を書いていながらも、小松左京はそうではない。あくまでも、どこまでも人類を信じているのだ。
やはり小松の親分、ロマンチストだったんだなあと、つい感じ入ってしまうのである。(写真:1966年、茨城県東海村の原子力研究所を見学するSF第一世代の作家たち。左から大伴昌司、豊田有恒、小松左京、矢野徹、星新一(後ろ向き)、筒井康隆=筒井さん提供)