ジョブズは、1974年初め、アタリ にテクニシャン(下級エンジニア)として採用され、40人目の社員として、技術部長であるアラン・アルコーンの下で働いた。長髪で風呂に入らず、ビルケンシュトックサンダル(または裸足)でうろつく不潔な姿のため、社内で嫌われたが、アタリのトップであるノーラン・ブッシュネルは気に入って採用したという。ジョブズは、ドイツまでゲームの修理に行く傍ら、友人のダン・コトケと共に、インドに数か月間も放浪の旅をし、坊主姿でカリフォルニアに帰って来た。
その後、ブッシュネルから直々に新製品「ブレイクアウト」(ブロックくずし)の回路の部品減らしを命じられ「減らした数だけ報酬が出る」と言われたが、ジョブズは自身ではできないことをすぐ認識した。ジョブズは、部外者のウォズニアックを毎晩こっそり社内に招き入れ、ゲームをしたり勝手に基板を改造していた彼に対してその片手間に作業を頼んだ。ウォズニアックは、4日間徹夜して部品を20~30個も減らしたが、余りに窮屈で難解な設計は、ウォズニアック自身にしか理解できなかったため、ジョブズは会社からやり直しを命じられる。その場で取りつくろおうとしたが当然できず、結局は、またしてもウォズニアックに泣きつくことになった。そしてウォズニアックは、多少部品は増えたものの、誰もがわかる程度に設計の変更を行った。
ジョブズは、報酬の山分けをウォズニアックに提案、アタリから受け取った「700ドル」のうち350ドルを小切手でウォズに渡したが、実際には5000ドルを受け取っており、差額は、オレゴン州の共同農場につぎ込んでいた。1984年頃、ウォズニアックはアルコーンに偶然出会った際、ジョブズによる報酬搾取の事実を知り、ジョブズとウォズニアックとの間にはしばらく確執があった。ともあれウォズニアックは、後述のApple IやIIを設計する際「ブレイクアウト」の部品減らしが、大変役に立つ勉強だったと語っている。なお、アルコーンはアタリを退職後、アップルコンピュータにも勤めていた時期がある。