【質問】
 練乳は軍用として開発されたというのは本当か?

 【回答】
 起源の一つではある.

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 さて,苺が美味しい季節になりました.
 最近の苺は甘くて,何もかけなくとも十分に美味しいのですが,牛乳をかけて,苺の粒を潰し,そこから滲み出た液を牛乳に混ぜたものが結構美味しくて今でも好きな食べ物の一つです.
 特に,練乳をかけるのが大好きでしたが,最近では余り見なくなりました.

 牛乳の問題点,それは,水分を約90%も含有するので,貯蔵や運搬に経費や労力を要し,極めて腐敗しやすいと言うのが大きな欠点でした.
 その欠点を取り除く為に,昔の人々は容積を必要とする水分を除去し,腐敗を防ぐ為に加糖すると言う手法を編み出します.
 これが練乳というものになります.

 この練乳が事業的に成功する様になるのは,実はそんなに古くなく19世紀半ば,1856年にゲール・ボーデンが特許を得てからです.
 ボーデンは,ジェレミアク,ミルバンクと言う2名の資本家の資金援助を得て,ニューヨーク州ホワイトプレーンにニューヨーク練乳株式会社を設立しました.
 ボーデンの特許は,牛乳を濃縮するのに,従来の大気圧で平鍋を用いるのでなく,低圧,低温状態で行う事に特徴がありました.
 この為,従来の製品に対して風味の点で優れていました.

 ほぼ同じ時期である1866年,欧州ではページ兄弟がスイスにアングロ・スイス練乳会社を設立し,練乳生産を始めます.
 この会社は,1904年にネスレ練乳会社に買収合併され,ネスレ・アングロ・スイス練乳会社として,世界各地に工場を有するに至りました.
 現在,日本でもインスタントコーヒーを生産してシェアの高い,ネスレの大元になります.

 ところで,現在流通している練乳は加糖練乳しかありませんが,牛乳を煮詰めて行くだけなら無糖でも出来るのではないかと考えた人は多く,ボーデンの練乳よりも早く工業化の試みが行われています.
 しかし,無糖練乳は加糖しない分,腐敗を防ぐ為の要素がないので,保存性を維持する製品を得ることが出来ず,その工業生産に成功したのは,1887年と,加糖練乳の後,マイエンベルクと言う人によって為されました.

 ただ,その無糖練乳を初めて製造したのは,フランスのニコラ・アベールと言う人です.
 この開発は,軍用品として腐敗しない牛乳を簡単に運ぶ事が出来ないか,と言うところから始まりました.
 アベールは,元の量の3分の1にまで煮詰めて減らした牛乳を缶詰に詰め,これを華氏240度(摂氏で110度)になるまで水蒸気で加熱滅菌する方法を考えました.
 残念ながらこの技術は練乳製造の技術にはなりませんでしたが,缶詰の加熱滅菌方法の基礎技術となりました.
 まぁ,何というか災い転じて福と成すというか….

 その後,1847年に至り,英国のグリムウェドが無糖練乳を防腐するのに,牛乳に少量の硝石を加え,真空釜内で減圧濃縮する方法について特許を得ましたが,こうして出来た製品には色々と欠陥があって広く応用するに至りませんでした.

 マイエンベルクは,先のアングロ・スイス練乳会社の技師でしたが,この製品の保存性を高める為に,独特の方法を開発し,米国で1884年と1887年にその特許を公開しました.
 この無糖練乳は,1898年に勃発した米西戦争で需要が一気に増加し,更に第一次大戦に於いては,加糖練乳と共に著しく消費量が増加します.
 その後,育児用や牛乳の代用品として用いられてきましたが,その後,無糖練乳は1946年以降,粉ミルクの増加から比例して生産量が落ち続けています.

 日本では1872年,東京麻布の旧佐倉藩主堀田伯爵家の邸跡に置かれた開拓使第3号試験所で,練乳が初めて製造されました.
 これは当時,既に世界的なブランドだったゲール・ボーデン社の鷲印ブランドの練乳を,手本に試製されたもので,御傭い外国人で技師だったケプロン,エドウィン・ダン,ブラウンの各氏と,畜牛及び乳製品製造主任だった田中勝太郎という人々によって為されました.

 当時の製造法は,日本在来の直径1尺5寸,深さ5寸5分の特製青銅鍋に生乳を入れ,石製の七輪にかけ,木製の攪拌ベラで掻き回しながら作り,途中で硫酸,炭酸カリウム,砂糖などを入れましたが失敗に終わりました.
 こうして,専門家と言えない人々が試行錯誤を繰り返しつつ,製法を確立していきました.
 そして,牛乳1升に砂糖70~80匁を入れて加熱攪拌,焦げ付かないように水分を蒸発させて製品にする事が出来たのですが,ボーデン社の練乳のような微細な結晶に至らず,しかも常圧で濃縮したので,メイラード反応で褐変してしまい,品質的に遙かに劣るものになってしまいました.

 その後,各地で練乳の製造が始まり,日露戦争を契機に基礎が確立しましたが,1905年で27万斤,1913年でも292万斤で,遙かに少数生産であり,一方で輸入量は1905年が812万斤,1913年は697万斤と此処でも矢張り舶来志向は明確に表われています.

 しかし,第一次大戦に練乳の輸入が停止された為,日本の牛乳,乳製品事業が工業的に発展していきました.
 ただ,製造技術は幼稚であり,鷲印ブランドの練乳に比べ,乳糖の粗大結晶,粘度増加,褐変化,細菌混入による斑点など課題は沢山ありました.

 その製造は,先ず荒煮釜と称する直径3尺5分,高さ3尺4寸5分の釜に牛乳を入れて殺菌することから始まります.
 荒煮の方法には,直接蒸気を牛乳に通して加熱殺菌する直接加熱法と,ジャケットによる加熱を行う間接加熱法の2つがありました.
 前者は水蒸気が凝縮するので,約15%液量が増加する反面,温度上昇は早い利点がありますが,蒸気中の不純物を混入する恐れがありました.
 後者は熱効率が悪いものの,効率的に殺菌し,不純物を混入する恐れが少ないと言う利点があります.

 荒煮が完了したら,出来た濃縮後の練乳をクーラー缶に流し込んで,水温と同じ13度まで冷却し,最後に粘度上昇と乳糖の粗大結晶を防ぎ長期保存出来る様に,ALと呼ぶ再製品を3%添加します.

 牛乳を半分に濃縮することが乳糖の浸透圧を増加させ,水分活性を抑えますが,濃縮のみで保存性を増すことは困難で,砂糖を加えて更に浸透圧を高めて耐乾性カビや耐浸透圧性酵母による変質を防止するのがミソです.

 現在は品質向上の為,製法が変わっていますが,基本的な組成はそんなに変わっていません.

 ところで,加糖練乳の祖とも言うべき,ゲール・ボーデンは,死の前にこんな言葉を残しています.

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I tried and failed, I tried again and again and suceeded.
Replacing the earthly symbol was monument with an epitaph that in two lines told the story of man’s life.

Gail Borden ( Dairy man to nation )

(訳:
 私は何回も何回も試み失敗した. しかし,最終的に成功した.
 男の人生の物語として,この2つの方向(失敗と成功)を墓碑に刻み,この地球に生きた証としたい.)
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 何か,死を前にした男の言葉と言うより,新入生に対する先生の言葉みたいですねぇ.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/04/07 23:19

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