霞が関にとって、東京一極集中体制とは公務員制度と並んで重要な「国のかたち」そのものである。先輩たちが官僚の理想として必死に作ってきた体制なのだ。堺屋によれば、東京一極集中の体制作りは昭和16年(1941年)ごろ着手し、大戦中の中断を経て1949年ごろから再開された。完成したのは60年ごろである。
霞が関はそのために行政指導と天下りを武器に全国銀行協会、電気事業連合会、日本自動車工業会など、ありとあらゆる業界団体をつくり本部事務局を東京に設置した。50代半ばで肩たたきに遭った高級官僚が東京の業界団体に専務理事として天下る。それが官僚の隠語で「専務理事政策」と呼ばれる究極の産業(再就職)政策なのだ。