①身分、戸籍
朝鮮には身分制度があり大きく4つに分けられます。
王族
両班(ヤンバン)官僚
平民(中人、常人)
賤民(奴婢、白丁)→そのうち奴婢は人口の3割そして前項でイザベラバードが述べていた通り、
盗む側と盗まれる側に2つに分かれます。王族、両班=盗む側
平民、奴婢=盗まれる側特に両班による民衆への搾取はかなり酷く、多くの民衆は絶望的な暮らしを強いられていたのです。
両班についてマリ・ニコル・アントン・ダブリュイは
『朝鮮事情』の中でこう書いています。「朝鮮の貴族階級は、世界でもっとも強力であり、もっとも傲慢である。両班は、いたるところで、まるで支配者か暴君のごとく振る舞っている。金がなくなると、使者をおくって商人や農民を捕えさせる。その者が手際よく金をだせば釈放されるが、出さない場合は、両班の家に連行されて投獄され、食物もあたえられず、両班が要求する額を支払うまで鞭打たれる。両班のなかでもっとも正直な人たちも、多かれ少なかれ自発的な借用の形で自分の窃盗行為を偽装するが、それに欺かれる者は誰もいない。なぜなら、両班たちが借用したものを返済したためしが、いまだかつてないからである。彼らが農民から田畑や家を買う時は、ほとんどの場合、支払無しで済ませてしまう。しかも、この強盗行為を阻止できる守令は、一人もいない。」
こんな無茶苦茶な身分制度が存在したのです。
しかも李氏朝鮮末期には、自称も含め両班は人口の半数を占めたとされます。
当然ながら、国が荒廃する大きな要因でもあったのです。
(なぜか現在の韓国人の大多数は、この両班の末裔だと自称しています)こんな身分制度があれば、とてもではないですが近代化を図れるはずもありません。
この身分制度は保護国時代に廃止されますが、両班達の抵抗は日本統治下でも続きます。日本式の戸籍制度を導入します。
それによって
身分制度の廃止
両班の特権の廃止
強固な男尊女卑からの女性の解放(名前を奨め、再婚許可)
など賤民も学校に通えるようにしたのです。この身分解放に両班は激しく抵抗しましたが、
政府によって鎮圧されています。私たちが学校で習ったあの悪名高き「創氏改名」の真実
「創氏」・・・朝鮮では男系の血統を表す「姓」しかなく夫婦で別姓を名乗っていました。それゆえに女性の地位は家庭内で低く、家族名という概念も無く、当然ながら日本内地の様な家族の絆も希薄でした。
そこで新たに「氏」というファミリーネームを新たに設けたのが「創氏」でした。
一方で朝鮮の伝統を尊重し「姓」は残されました。
つまり「姓」自体を変更したのではなく、血統の「姓」に加え、家族単位を強固にする「氏」を加えたのです。
「創氏」は届け出制で約8割の朝鮮人が新しい「氏」を作りました。
便宜上日本的な氏にする者、朝鮮的な氏にする者、それは届けた本人の自由によるものでした。「改名」・・・朝鮮では姓名の変更には裁判所の許可が必要でした。
これを届出のみで変更できるようにしたのが「改名」です。
もちろん本人の任意とされていました。創氏改名の届出についてのチラシ上記のチラシの右端をご覧下さい。
「好機ヲ逸サヌヤウ」とあります。これはどういう意味でしょうか。実は、併合当時から朝鮮人は日本風の「姓」に変える者が後を絶たず、
総督府令第124号「朝鮮人ノ姓名改称ニ関スル件」によって、
戸籍や出生で「内地人ニ紛ハシキ姓名」の届出に厳しい制限をつけていたのです。想像して下さい、当時の朝鮮は日本だったのです。
一等国である日本の日本風の名前を朝鮮人が付けたがるのは当然だったかもしれません。
現在の在日朝鮮人の方々が、通名を便宜上利用しているのに通じるものがあります。制限していたものを、朝鮮人の要望で届け出制にしたのです。
ですからチラシの
「好機を逸サヌヤウ」という文言が入っているのです。まとめると・・・
「朝鮮人から名前を奪った」→朝鮮伝統の「姓」は残されました。むしろ名前のない人々に名を与えました。「改名」は任意制でした。
「日本名を強制的に名乗らされた」→実際は「氏名」は自由に朝鮮名でもつけられた、「改名」は任意制であった、むしろ朝鮮人は日本名を付けたがった。
②教育
併合前、朝鮮では全国に小学校が100校程度しかありませんでした。
また両班の影響から漢字だけが特別称えられ、ハングル文字などは軽視されて教育されてきませんでした。
当然、国民の識字率も5%未満だったのです。まず日本は学校建設を最優先事項とし、力を注ぎました。
学校を約5000校以上建設し、京城帝国大学(現ソウル大学)まで設立します。
(なんと日本初の大学・東京帝国大学から数えて6番目の設立でした)朝鮮語は必須科目としてハングルが教えられるようになります。
朝鮮語の教科書「普通学校朝鮮語読本」
発行者:朝鮮総督府と記入があるのが確認できる国語辞典と呼べる代物がなかった朝鮮に、
初めて本格的な辞典「朝鮮語辞典」を1920年に発行これも朝鮮総督府という記入が確認できる福沢諭吉が朝鮮の歴史の中で軽視されてきたハングル文字と漢字との「漢字ハングル混合文字」を考案して、井上角五郎らが「漢城周報」を発行します。
その甲斐あって識字率は終戦時の頃には約60%以上まで伸びることになります。
日本は朝鮮人から言葉や文字を奪ったのでは無く、そして日本語を強制したのでもなく、朝鮮語(ハングル)を必須課目にし、朝鮮人の教育改革に尽力していたことが分かります。