部落問題の歴史を簡単に説明してほしい
部落問題はどうしたら解消される?
また今行われている対策は解消の方向に向かってる?
部落出身者で差別される人とされない人の差は?
44:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/07/22(月) 16:26:05.79ID:Vu8PTZDm0
»41
じゃ順追って説明する被差別部落に深くかかわるのは「ケガレ」と「地域形態の在り方」
・ケガレとは、血や死に関わるのを嫌う思想
具体的には生き物の死体や血(経穴含む)に触るのを嫌う。
・これは、仏教が入ってきたときに一緒にインドのケガレ思想が入ってきたことで
日本にも生まれたのが始まりだと言われている
・そのため、ケガレ思想は仏教の伝播中心地である畿内発祥とされる。部落差別も畿内が最大地域
・また、仏教を取り入れたのは貴族であるため貴族文化的な地域で部落差別は多く残る=西日本で多く残り、
東日本ではあまり残らなかった。
※仏教の信者比率を見ると東日本と西日本でくっきり比率が違い、
東日本は多くの県が仏教信者率2割程度だが西日本では4割超えは珍しくない
・それ加えて、畿内 には都という、特別な意味を持つ土地があったことで
都は清潔であるべき、洗練されているべきだという考え方があった
・しかし都は人が多く、特に平安時代になってからは平安京でも道端に人や牛の死体がごろごろ転がっていた
・死や血に対する畿内民の嫌悪感は強まる。
・「清潔であるべき」という思想は都だけではなく神社にもあてはまり、
神社の周りは部落差別が苛烈な地域が多い。
・貴族の頂点である天皇家の皇祖神まつる伊勢神宮は特にそれが顕著で、
神社の周りや神社の持ち領だった地域=御厨が多かった地域は部落差別が多く残る。
続く
45:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/07/22(月) 16:27:40.89ID:Vu8PTZDm0
・「清潔に保たなければならない」が、
必ず生き物は死ぬし死ぬ場所を限定することはできない。
・そういう死体を片づけなければいけない人が必要。
それが「穢れ多い」「エタ」の始まり。
・こういったケガレ作業に従事してた人たちだけではなく、
神社を掃除したり呪術を行う人たちも最初は尊敬されるほど、「畏れられていた」けど
次第に差別されるようになった。「畏れ」って恐怖と尊敬が隣り合わせてる感情だからな。
・また、律令制の崩壊によって農村集落の在り方が変わってくる。
それは村ごとの世帯の数が増え、村は村で自治をおこなうようになる
・それによって村の団結力が高まる。=部外者を嫌うようになる
・また、このころより行商民という非定住民族もぽつぽつ出始める。
非定住民はつねに部外者であり、嫌われる。現代でも農民って移住民嫌うだろ?あれのもっと苛烈なもん
・この「俺らとは違うやつら」を嫌う傾向は、「ちょっと変わった生活を送るやつら」も含まれる。
それが神人であったり、乞食であったり、職人であったり、芸能民であったり…
・さらに室町期より商工業が盛んになり、その技を究める「職人」的なものが出てくる。
・それは戦乱が続き皮革業需要が伸びたことによりいっそう必要とされるようになる
・この皮革業=牛や馬の死体から皮をはいで皮製品にする職業はケガレの上に職人であるため、非常に嫌われた。
被差別部落の前身は皮革産業従事者である割合が非常に高い。
続く
57:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/07/22(月) 16:41:09.89ID:viLcGXv80
»45
これはスッキリと分かりやすい説明だな、興味深くじっくりと読ませてもらうよ
これだけでこのスレ覗いた価値はあるな
46:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/07/22(月) 16:29:04.57ID:Vu8PTZDm0
・こうした人々が「同じような職業の奴ら」で固まるようになる。なぜならその方が専門知識を情報交換しやすいし、
団結することで差別に立ち向かえるから。
・これが被差別部落の始まり。
・この「職業民の繋がり」や「地域の繋がり」である横のつながりの勢力は西日本中心で、
東日本では地域のつながりではなく血族の繋がりである縦の繋がりのほうが強かった。
・なぜなら都市の発展段階として、部族集団→血縁集団→地域集団という段階をたどる。
西日本は先進地域で東日本の発展段階の一つ上だったから。
・東日本では村のケガレ的作業は一族の末端=次男三男四男とか傍系のやつらがやることで処理していたから
村で差別的職業を担う奴が生まれなかった。
・そのかわり東日本では本家と分家でほぼ差別と言えるほど権限が違うという問題がある。
また、家父長制からなる血縁集団のため女性の権限が非常に低い。
・東日本的な村社会が今も濃く残る東北は排他的で陰湿とか言われるだろ?
地域集団は村人と何らかの縁があればなじめるけど、血縁集団は血縁になることでしかなじめない。だから排他的になる。
・東日本にも被差別部落あるやんけというかもしれないが、そういうのはだいたいその土地の偉い人が西日本から連れてきた職人であるとか、
社会的な発生要因で自然発生的な事であることが低い
・江戸で有名だった弾左衛門ももとは西日本から来た人。
続く
47:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/07/22(月) 16:29:58.78ID:Vu8PTZDm0
・埼玉は人数だけでみると被差別部落民の人数は多いが、東日本中から集まって昔から住んでる被差別民ではない場合があるのと、
そもそも平野が広く県規模の人口だけ見ると多いように見えるが、村の数が多く、村の人口が少ない。
・エタ村っていうのはほぼ必ずと言っていいほど隷属する村「主村」がある。
普通の人が穢れを嫌ってやらないことをやる人達なんだから、やらない村に隷属するのは当たり前だよな。
・処理する人数は隷属する主村の人口に比例するから、村の人数が少ないほどエタ村の人数も少なくなる。
・被差別部落村があっても小さいのが点在してて、大きい村になることがなかった。
・こうした理由から巨大な被差別部落は西日本にあって、東日本は被差別部落があっても非常に人数が少なかった。
・この室町期に生まれた被差別職業集団や農村は江戸幕府によりそのまま利用されることになる
・違う目的を持つ対立する集団がいた方がお互いを監視させることができて幕府にとって都合がよかったから
・だが、江戸時代を通しているうちに農村の経営がうまくいかなくなって都に農民が逃げたり、
固まってた職業集団が固まらなくなってきたりする。
・それに伴い、差別も薄れていっていた。
このころの埼玉のとある農村では被差別民が参加させてもらえなかった村の祭りに普通に参加してたりする記録も残ってる
・何百年も代々同じ職業を続けるって難しいからな。
続く
50:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/07/22(月) 16:31:25.59ID:Vu8PTZDm0
・幕府にとってこれは困ること。なぜなら農村をお互い監視させることができなくなるし、
農民が逃げたら米を経済の基礎としてる武士が生きていけなくなるから
・これを阻止するため「幕府の基礎」を固めるため、農民は農民、職人は職人、被差別民は被差別民として暮らすようにしろ というお触れが出る
・幕府のお触れは基本幕領だけだけど、全国の藩は徳川に右ならえなので各藩でも同様の政策を出していく。
・これが被差別民が言うところの「幕府の責任」。
よく「農民や商人に優越感を持たせるため被差別民をつくった」って言われるけど、これは現代の部落差別研究では間違いとされている。
幕府が被差別民を作ったんじゃなく、もともと自然発生的なもの。
・それが薄れようとしていたときに、「差別を強化することを目的」としたんじゃなく、
「基礎を盤石にするため」に昔の体制に戻す一貫の政策の中の一つとして薄れた差別が強化されることになった。
・だけど「エタ」は被差別民であると同時に職人であって、徳川の職人は職人として生きろというのは正直都合がよかった。
・なぜならエタが担う皮革産業は非常に儲かるから。
・ちなみに非人は落ちぶれた貧乏人だったり、犯罪人だったりでエタとは明確に違う被差別民。
決定的な違いはエタは金を持っていたが、非人は金がない場合が多い。
・非人が差別されたのは元犯罪人であったり、貧乏で小汚かったり、乞食だったから
続く
51:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/07/22(月) 16:32:30.21ID:Vu8PTZDm0
・話を戻す。エタが皮革産業を独占できたため、エタ村=エタばかりが集まった村はすげー金持ち。
エタ村で一番有名な大阪の渡辺村っていう村が昔あって、その村の収支見ると並みの村よりはるかに金持ってる。
・そういう金持ってることに対する妬みも差別につながった。
・時代は変わって明治時代。エタ非人にとって転機が訪れる。明治政府の公的機関による「被差別の撤廃」だ。
・この被差別の撤廃の反対運動があったよな。あれは全部西日本で起こってる。というのも、西日本は被差別部落の人数も大きく、
通常の村に堂々と敵対する勢力として成り立っていたから、村同士の仲が悪いし、存在感も大きくあれだけ大騒ぎした。
・東日本の被差別村は普通の村に対抗できるほど大きくない。
・この被差別の撤廃は聞こえはいいがエタにとっては大問題だった。差別撤廃はいいが、それによって職業の自由の時代が来たことによって、
皮革産業の独占ができなくなったから。エタが他の職業に就こう としてもエタだから嫌われてつけない。
・これによってエタの貧困が始まる。これが被差別民がいうところの「明治政府の責任」。
・だからエタ自ら「差別の撤廃=職業の自由化はやめてくれ」って言ってるエタ村もあったりする。
続く
52:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/07/22(月) 16:33:50.16ID:Vu8PTZDm0
・また、過去の身分を隠しながら生きていけばいいじゃんって思うかもしれないけど、
結局長年の皮革産業の知識と技術を培い、持っていたのは被差別民だったから「差別撤廃」「職業の自由化」といいながら
そこまで産業の自由化が起こらず、被差別民は皮革産業に従事し続ける事も多かった。
・東日本では被差別部落は小さい。淘汰されたり、移住民が来てすぐなくなったりすることができたが、
西日本では被差別部落は大きく、農村の横のつながりが強い。いつまでも差別が残ることになった。
・これが現代の東日本と西日本の部落差別の在り方の違い。
・ちなみに、西日本でも唯一北陸地方では浄土真宗が多く、
浄土真宗は殺しも穢れも否定しなかったから被差別部落が格別に少ないという特徴がある
・この被差別部落民がいうところの幕府の責任と明治政府の責任は、
現代の行政が同じ業務を引き継いでいるのだから行政が責任を負うべきだとされているのが被差別部落民に対する行政の優遇。
・現代はこの優遇策がまた差別の原因になってる部分が否めない終わり
61:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/07/22(月) 16:50:58.48ID:Vu8PTZDm0
»41
歴史は今言ったとおり
どうしたら解消か、解消に向かってるかは、東日本式は「いつか忘れるから放っておこう」式で、
西日本式は「差別はだめだとあらかじめ教えよう」式
東日本のほうが実際差別は少ないけどもともと母数が圧倒的に違うからどっちが正しいのかは被差別部落研究界でも答え出てない
差別される人されない人は同じ被差別部落出身者なら単に本人の性格の問題