「形而上学的自負心」の塊
ヒトラーの嘘に長く付き合っていると、ヒトラーの独特の人格が見えてくる。それは、あまりにも誇り高い青年が、いままですることなすこと裏目に出てきたという状況において、ようやく見出すことのできた活路であり、ごく一般的にまとめればすべては「(自分ではなく)社会が悪いのだ」と解釈することである。
少なからぬ青年はそこにしがみつく。それは、自己欺瞞と言うにはあまりにも切実な自救行為である。これを(後に述べるイェツィンガーのように)単純に「嘘だ!」と糾弾し、すべてはヒトラーが自分を騙し大衆を騙して権力を得るための戦略であり戦術であると結論するのは、読みが浅い。ミュンヘン一揆の後にはあるいはそうかもしれない。だが、ウィーン時代のヒトラーにそんな自覚はなかったに違いない。20歳の彼は、自分を救うことで精一杯だったのだ。
そうした青年はいつの時代にもいたし、現代日本にも少なからずいる。しかし、その多くが自分に対する外からの客観的評価を無視できないのに対して、ヒトラーの天才は、自分に下された客観的評価を(心の中で)「無」にできること、それほどまでに自分を救うことに熱狂できることである。
世界の構図をすべて逆転してでも自分を救うことは「義務」なのだ。そのために必要なものなら何でも利用する。たとえ真っ赤な嘘でも。これまでの人生において度重なる負け札を引いてきた自分が、このまま終わるわけがない。この推理にさしたる理由はない。あえて言えば「自分だから」だ。
ここには、サルトルの言葉を使えば、「形而上学的自負心」(自分が何であるか、何をしたかによる自負心ではなく、ほかならぬ自分だからという自負心)が唸り声を上げている。ヒトラーは、この「形而上学的自負心」の巨大な塊であった。それが、究極的には、彼の異様なほどの「成功」の原因でもあり異様なほどの「失敗」の原因でもある。