落合博満さんの現役時代の主審とのつきあいかたの話も紹介されています。
とかく、多くのベテラン選手は自分より年齢が下のアンパイヤにややボール気味の球をストライクと言われてしまうと、態度に出ます。もちろんアンパイヤには敬意を表しているのですが、自分正しいと思うと、顔に露骨に不満を表したり、高圧的に「今のは低いだろう!」などと声に出したりしています。
落合さんはそういところを一切見せませんでした。ご本人もややボールと思ったものを仮にストライクと言われても、落合さんはゆっくり振り返ってそのアンパイヤに向かって、いたってやさしい口調で、
「ちょっと広めに取っているように思えるんだが、今日はあそこまで取っているんだよな?」
と確認をします。
決して良い、悪いは言いません。あくまでも「わかっているよ」という確認作業。
ところがこういうことを続けると何が起きるかというと、アンパイヤたちの間には「やはり落合さんは際どいところがすごくよく見えている」というイメージが定着するのです。誤解のないように言いますが、実際に落合さんの選球眼は良いです。しかしこの高圧的ではない、ある種威厳ある確認作業を繰り返すことで、ただでさえ良い選球眼がより良いような印象がアンパイヤの方々に植えつけられるのです。
こうしているうちに、落合さんが狙い球を外して甘い球を見逃してしまっても、アンパイヤが「ボール」と言うようになりました。「抗議」すると、相手の心証を悪くしてしまうし、それで判定が覆ることは、まずありえない。
ところが、落合さんは「確認」するだけで、アンパイヤ自身のほうが「落合さんが見逃したのなら、ボールなんだろうな」と思うように仕向けてしまった。
「仕向けた」なんていうのは言葉が悪いですが、落合さんは、たぶん、意図的に疑問のある判定に対して、こういう対応をしているのではないかと思われます。
長い目でみれば、それがいちばん「有効」だから、と。
こういう「人の動かしかた」もあるのだなあ、と僕は感心するばかりでした。