私の父と私は血のつながりはない。
血縁上の父親は私が生まれてすぐ出ていったそうだ。
だから顔も名前も知らない。

私が2歳か3歳かの時に母が再婚して今の父と一緒に住んでいた。
そしてすぐに弟も生まれて何不自由なく父と血が繋がっていないことを除けばごくごく平凡な家庭だった。

小学校1年の時母が突然いなくなった。

学校から帰ると母がいなかった。
弟の幼稚園お迎えに行っていると思ってテレビ見ながら待ってたが1時間たっても帰ってこない。

幼稚園から電話が来て

「お母さんは?」

と聞かれて

「家にいない」

と答えた。

さすがに不安になり母の実家(車で10分くらいの距離)に電話するとおばあちゃんがすぐに弟を迎えに行って、弟と家に来た。

おばあちゃんは家に来てテーブルの上にお母さんからの置手紙をみつけ、おばあちゃんが父やおじいちゃんに連絡をしたらしくおじいちゃんやおじさん、父も仕事を切り上げ帰ってきた。

父は青ざめていたが、不安な顔をしている私と弟に気づいて

「大丈夫だよ、でも、お母さんしばらく家に帰ってこれないみたい」

と言ってくれた。

「しばらくってどのくらい?どこにいったの?」

と聞きたかったが子供から見てもみんな混乱していたので聞けなかった。

結局母は帰って来ず、私たち兄弟はそれから1カ月位、私と弟は母の実家に預けられた。

このまま父もいなくなるのではと不安だったが父は毎日必ず顔を見に来てくれた。

父や祖父母、おじさんも母を探している様子で、毎日どこかに電話したり出かけたりしていた。

お母さんはいつ帰ってくるか。誰に聞いても明確な答えは返ってこなかった。

1カ月くらいが過ぎて母が帰らないまま私たちは家に戻った。

久々に帰った家は、前と何も変わっていない1か月前に家を出た時のままだったが、母がいない事が実感してしまい弟と大泣きしてしまった。
私たち2人を抱きしめて

「お父さんがいるから大丈夫」

といった。

「お母さんは帰ってこないの?」

と泣きじゃくりながら聞いたが父は何も答えなかった。

それから父は朝、早く起きて朝食を作り私と弟に食べさせて弟を幼稚園に送り仕事へ、幼稚園のお迎えは主におばあちゃんがしてくれてそのまま家で私を弟の面倒をみて夕食を作り食べて、父が帰ったらおばあちゃんは帰るというパターンになった。

母がいなくなってさみしい思いをしているだろうと察しているのかおじいちゃんや、おじさんもよく遊びに来てくれた。

弟が幼稚園を卒業して弟を迎えに行く必要が無くなってもおばあちゃんはしょっちゅう家にご飯を作りに来てくれていたが父もおばあちゃんばかりに負担はかけられないと考えてか早く帰ってきて料理をするときもあった。

父の料理は正直あまりうまくなかったが気を使って

「おいしいよ」

と言っていた。
でも母の料理を思い出しさびしくなった。

小学校は父兄が協力が必要な行事がたくさんあったが父はいつも参加してくれた。
どうしてもこれない時はおじいちゃんが来てくれた。

基本給食だったが遠足や部活の試合の時なんかは朝早く起きてお弁当を作って送り出してくれた。

父は1人で父と母の役目をこなしていた。
子供から見ても大変なのが分かったのであまりわがままは言わず困らせたことも少なかったと思う。

何度か父に母について聞いたこともあったが父は答えに困っていた。
小学校高学年にもなると母のことを話題にすることも無くなった。
というか何となく触れてはいけないことのようになっていった。

でもやっぱり内心は気になっていて死んだのか?とも思ったが葬式はしていない。
何か悪い事をして(交通事故とか)刑務所にいるんじゃないか?

とかいろいろ考えてはみたものの、父と母はけんかして母が怒って出ていったのだと結論をだした。
それ以外思いつかなかった。

そして中学生にもなるとだんだん母はもう帰ってこないと思うようなって、母のことが気になることも無くなった。

中学2年か3年かは忘れたが進路での3者面談の時自分は就職をして定時制の高校に通うことを希望した。
父に負担をかけたくなかったからだ。

父には本当に感謝していた。
本当の親でないのになぜ本当の子供のようにできるのか。
すごいと思い、尊敬し父のようになりたいと思った。
だからこその決断だった。

私は父にそのことを伝えた。
いつも落ち着いている父が珍しく声を荒げて

「本当の親ってなんだ?お前の前のお父さんや、お母さんはお前たちのことを捨てた。
そんな奴が本当の親って言えるのか?本当の親ってのは自分の事より子供の事を考える人間のことだ。
血のつながりなんか関係ない。」

自分の母や前の父親が自分の事を捨てたってのは薄々気づいていたがただ断言されてしまうとショックだった。

でもそれよりも父が私の事を「本当の子」だと言ってくれたことがうれしかった。

「お前の気持ちはうれしいが、感謝してくれているならお前が本当に進みたい道に進んでほしい。」

気づいたら私は泣いていた。
「ありがとう」と言いたかったが照れ臭くて言えなかった。

父も先生も泣いていた。
帰り際先生が

「素晴らしいお父さんだ。大事にしなさい」

と言ってくれた。

私は普通の高校へ進路を決めて猛勉強した。
その結果、割と頭のいい進学校に合格できた。
卒業式は父が仕事を休んで来てくれた。
父は泣いていた。

その夜、父は私の部屋に来た。

「お前も中学卒業か、早いもんだな。高校生でも大人とは言えないが自分の事は自分で決めてもいい頃だろう」

父が何が言いたいかわからず頭の中は「??」だった。
そしてすこし間があった。

「お母さんとあってみるか?」

「え?居場所知ってるの?」

父は母の居場所を知っていた。
私が会うつもりなら連絡をとるという。

「会う」私はすぐにそういった。

父は弟にも話をした。
最初弟は今さらあっても。。。という感じであまり乗り気でない感じだったが「今会っておかないと絶対後悔する」と(根拠はないが)説得した。

2,3日後に弟と私で国道沿いのファミレスで母に会う事になった。

会うまでの間、いろんなことを考え、混乱した。
なぜ出ていったのか、私たちをどう思っているのか、今何をしているのか、聞きたいことは山ほどある。

でもそれを聞いていいのか、聞いたところで何になるのか。それならば会わない方かいいのか。

一番聞きたかったのは私たちを捨てた理由はやむを得ない事情があったのではないか?それを母の口から聞きたい。ということだった。

会う当日は夕方から会う事になっていた。
春休みで受験も終わっていたので普段は昼まで寝ていたが8時には目が覚めて一日中そわそわしていた。

弟は部活に行ってた。
「あと数時間でお母さんと会う、数時間後私たちは何を話しているんだろう」そればかり考えていた。

弟が帰ってきて二人で自転車でファミレスまで行った。

ファミレスの店内に入ると店員の「何名様ですか?」より先に母が手を振っていた。

母の席に着く。
母は自分の記憶の母よりかなり老けておばさんになっていたが、遠い昔の記憶の片隅に残っていた母だった。

母を直視できず、10秒位間があった。
何を話せばいいのか分らなかった。

「久しぶり」

それが10年振りの最初の母の言葉だった。

母はいろんなことを聞いてきた。
最初は緊張のため母からの質問に答えていただけだったが少しづつ段々自分から話が出来るようになった。

学校の事、友達の事、進学の事、小学校のころ鉄棒にぶつかってでっかいたんこぶを作ったこと、部活でもう少しで全国大会に行けなかったこと。

いつの間にか止まらなくなっていた。
聞いてほしい事がどんどん出てきた。
母はニコニコ聞いてくれていた。

あまりに私がしゃべってばっかりいるので弟が

「自分ばっかしゃべりすぎだよ」

と諭された。

私は母がいなくて寂しかったことはない。
と自分で思っていた。

でも母と話していると私は母に聞いてほしかったことが止まらなかった。
きっと母がいなくてさみしかった。
母に会いたかったが自分の気持ちを押し殺していただけだったと気付いた。

楽しかった。
あっと言う間に時間が過ぎて、窓の外はすっかり暗くなっていた。
先日買ってもらったばかりのPHSが鳴った。
父からだった。

父は

「久々なんだからまだ話しててもいい」

と言っていたが母はあまり遅くなっても危ないからとその日の面会は終了となった。

最後に母は

「自分勝手な母のせいで苦労掛けたと思います。本当にごめんなさい。
本当に身勝手なお願いだけどたまにでいいから今日みたいに会いたい」

母は泣いていた。

私も弟も二つ返事で了承した。

「私子、弟男、今日は本当に本当にありがとう。優しい子に育ってくれてうれしい。」

「お父さんに感謝だね」

しきりにそう言っていた。
私たちがお父さんに感謝しなさいという意味なのか、それとも、母自身が父に感謝しているという意味なのか分からなかったが、多分両方の意味だろう。

帰り道、母はちゃんといて私たちの事を気にかけていてくれた。
これからは母と話が出来る。
そう思うと嬉しくてたまらなかった。

一番聞きたいと思っていた、母が出ていった理由などどうでもよくなっていた。

家に帰り父に今日のことを報告した。
嬉しかった、楽しかった。
興奮気味に話す私たちの話を優しく聞いてくれた。

「もうお母さんとは暮らせないの?」

深く考えずに言ってしまい、まずい事聞いてしまったと思った。

父は少し暗い顔をした。

父「2人は母さんと暮らしたいか?」

私&弟「うん」

父「母さんが出ていった理由は聞いたか?」

私「聞けなかった。」

それでその話題は終わってしまった。

数日後

「ちょっとついてこい」

と私たち兄弟を連れ出した。

席が個室になっているレストランだった。
母が店の前で待っていた。

何が始まるのか何となくわかった。

父「2人に今までの経緯を全て説明する。そのうえで自分たちがどうしたいか決めてほしい。」

母は覚悟を決めたように話し始めた。

前の夫(私の血縁上の父)とは結婚する前から働かずパチンコばっかりして金が無くなると金の無心ばかりしていた、私子を妊娠したので結婚したのでこれを期に働いてくれるかと期待したがダメだった。
母の貯金を食いつぶして出ていった。
私子を一人で育てる覚悟をして実家に帰った。
でもまだ前の夫に未練があった。もしかしたら心を入れ替えてやり直したいって言ってくるんじゃないかって思ってた。
でも1年待っても2年待っても前の夫から連絡は無かった。

地元に帰ると地元の友達が心配して様子を見に来てくれた。
その一人がお父さんだった。

お父さんはしょっちゅう遊びに来てくれて、沈んでいた母を私子と連れ出してくれたり、面倒も見てくれたりしてくれた。前の夫の事も相談していた。

私が2歳の時に父は母に

「お前も、私子もまとめて幸せにしてやる」

とプロポーズして二人は結婚した。

程なくして弟男を妊娠⇒誕生となる。

それから3年程経って突然、前夫が母に連絡をしてきた。
前夫は母に復縁を迫った。
前夫への気持ちが蘇り、そのまま不倫関係になってしまった。
不倫関係は半年近く続いた。
前夫は父とは離婚して母と再婚しよう、言って来た。
子供たちは父に任せればいいと。

母は前夫に気持ちがあったが家族を捨てる決断は出来なかった。

そんな母にしびれを切らし前夫は父と子供がいないすきを見計らい半ば強引に母を連れ出した。
私子と弟男が気がかりだったが父は子煩悩で優しい人だから自分がいなくてもちゃんと育ててくれると思い、そのまま家出をした。

前夫は

「しばらくしたら、父に離婚の話をしに行こう」

と言っていたが、家出して1週間位で父と母の父が興信所を使って母の居場所を突き止めて、前夫の部屋に乗り込んできた。
興信所で調べたため一緒にいる男が前夫だということも知っていた。

父は怒り泣いていた。

「子供たちを捨てたのか?」

父の顔を見たら何も返事が出来なかった。

母父からは絶縁を言い渡された。

この時やっと母は自分のやったことの重大さに気付いた。
しかしもう取り返しが付かなかった。

気がつくと私は母を睨みつけていた。
母が気持ち悪い人間に見えた。

「キモい。っさいってい、あんたお父さんの気持ち考えたの?どんだけ苦労したかわかってんの!?」

私はそう言って席を立った。
目まいがして真っすぐ歩けず駐車場で吐いてしまった。
父はすぐに追いかけてきて、私の嘔吐が一段落すると

「今日は帰ろう」

といって、弟を連れてきて、母の所には戻らず帰った。

男を作って出ていった事は可能性として考えてはいたがよりにも寄って私を捨てた前父だったことがショックだった。
父より前父を選んだ母が許せなかった。

2,3日後、私は父に

「母を許すことはできない。母にそう伝えて欲しい」

と言った。

父は

「母の話はまだ途中だ。許す、許さないは全てを知ってから判断しなさい。母と会うのが嫌なら俺から説明する。」

私は母に会う気にはなれず弟も呼んで父からその後の話を聞くことにした。

夫と母の部屋に乗り込んだ後日、改めて話し合いの場が設けられて父が出した条件は

「慰謝料の請求はしない。その代わり親権は絶対に譲らない。面会も一切なし。実家からも絶縁。
もし、親権を望む場合は(多額の)慰謝料を請求する。」

というものだった。
母は混乱。

そんな母をよそに前夫はその条件を飲んで示談が成立してしまった。

「せめて面会だけも」

と懇願したが父は

「お前はもうあの子たちの親じゃない。」

といって取り合わなかった。

前夫は

「一人は俺の子じゃないんだし、子供なんてまた作ればいいじゃないか」

と言っていた。

父はこんな男に親権を取られなくて本当に良かったと安堵した。

母は元夫とは再婚せず、元夫のもとを去った。

1人で地元を離れて部屋を借りてアルバイトで生活をした。
私たちに会いたくて、父とやり直したくて謝罪の手紙を送ったが父は封を切らない状態で送り返した。
それでも何度も何度も手紙が来た。
あまりにもよく届くので、父は

「子供たちが気づいてしまうので手紙を書くなら職場宛にしてほしい事、
一度でも子を捨てた人間を親として家庭に戻らせることは出来ない事。子供たちの写真だけはたまに送る」

という事を書いて返信した。

そして母はたまに届く私たちの写真だけを楽しみに今まで生きてきた。

話を最後まで聞いても私は許す気にはならなかった。

「自業自得だよ。」

と呟いた。

すると弟がノートを手渡してきた。

「姉ちゃんが吐いてるときにお母さんから預かった。」

ノートは5冊有った。
そのノートは母の日記だった。

「いつか私子と弟男がこの日記を見てくれると信じて」という文章から始まっていた。

母が前夫の元を出た日から始まっていた。
約10年毎日欠かさず書いてあった。

最初の方は謝罪と後悔、ばかりだった。

「まだ悪い夢を見ているんじゃないかと思う。でも朝目が覚めると家族はない。
これが現実なんだと実感する。夫と子供を裏切った自分が悪い。」

「弟男と同じぐらいの男の子を連れた家族がスーパーで楽しそうに買い物していた。
私は家族がみんなで買い物に行くとかそんな日常的なことが実は最高の幸せなんだと気付かなかった。」

とか。段々と苦しいながらも現実を受け入れて生活をしている様子が見て取れた。

その後も必ず私たち姉弟の事が書いてあった。

「弟男!入学おめでとう。たくさんお友達を作って、たくさん遊んで、勉強も頑張ってね。
学校に行く時は車に気をつけて。ランドセルを背負った姿が見たかった。」

「私子、弟男、あけましておめでとう、どんなお正月を過ごしていいるかな。
今年が2人にとって素晴らしい1年になりますように。」

「二人の写真が届いた!弟男は少し大人っぽくなったかな。
声変りもそろそろ?私子は前髪があった方がかわいい!どんな生活をしてるんだろう。知りたい。すごく会いたい」

意外な事実も書いてあった。
弟のランドセルをはじめ誕生日やクリスマスには母は私たちにプレゼントを送っていた。

そのプレゼントは父方の祖父母からということで私たちに渡されていた。

ゆっくり丁寧に母の気持ちを考えながら読んだ。
母過ごした10年間を全部受け止めたかった。
全部読むのに3日かかった。

読み終わるとすごく母に会いたくなった。

私は弟と父に「母を許してまた一緒に暮らしたい。」事を伝えた。

父は真剣な顔で

「誰かを許すという事は、今後絶対にその事を持ち出して責立てたり、非難してはいけない。それが出来るか?」

私と弟は

「出来る」

と答えた。

父はニヤッと笑い。

「じゃーいこう!」

「え?今から?」

「こういうのは早い方がいいんだ」

3人で車で母の部屋に向かった。
修学旅行の前の様なウキウキした気分だった。
母の部屋はとなりの市だった。

母は突然の訪問に驚いていた。

「どうしたの?とりあえず入って」

「いや、ここでいい。確認したいことがある。」

父は私たちを見てから、母の顔をみてゆっくりと

「お前は母として自分を犠牲にしてでもこの子達を守る覚悟があるか?」

母は私たちそれぞれの顔を見つめて

「あります。自分の命に変えても守りgyふじこ!」

エグエグしていて最後の方は言えてなかった。

父は私たちを見て

「家族は1日でなれるもんじゃない。お互いを思いやって毎日少しずつ家族になっていくんだ。それが出来るか?」

私は深く頷いた。

父はもう一度母の方を向き優しく

「帰ろう」

と言った。

私は母に手を伸ばして

「家に帰ろう、お母さん」

と言った。

私は弟に

「あんたもやれ」

と目配せして弟も母に手を伸ばした。

母は私たちと手をつないだまま号泣した。
私は母を抱きしめた。

母はなんか言ってたけど、全然聞き取れなかった。
それでも

「うん、うん」

と返事をした。

私たちは家に帰った。
母は家に帰ってもずーっと泣いていた。

その夜はリビングに布団をひいてみんなで寝た。

布団に入って母といろんな話をした。

「私子も弟も本当に優しい。」

母は言った。

「お父さんに似たんだよ、親子だから」

私は言った。

「家族みんな一緒にいる。これって奇跡なんだね。」

母は言った。

4人家族に戻り私は高校生になった。
母はいつも幸せそうだった。

それから10年以上たち私はもうすぐ母になる。
親になる決意を忘れないためこれをまとめました。

http://kamibakusho.com/archives/51679114.html

(via

to39

)

泣いた

(via bochinohito)

これはきつい。

うちは片親で、父と母は離婚したわけではなく、また離別はこういうものではない(父は交通事故で寝たきりになった)のだが、こういう事件はおこった。ありがちだが、父が倒れたあとに父方の母からは母に対する確執があった。不愉快な諍いがあり、物心ついてからはそういうものから母を努力をするように生きてきた。

この話の父さんは、すごい人物だが、私子さんは、とても誇らしくこれを書いているだろうと思う。この父さんの許しと愛の形にとてもにたものを僕の母は持っていたのでよくわかる。あるとき、僕にとっては血がつながっている祖母なので、僕(と姉)とで(母は一緒ではなく)祖母に会いに行くときに、母は祖母について「おばあちゃんも、愛する息子がああなってしまって、耐えられないのだろうから、こちらに辛く当たるかもしれないけど、許さなくちゃいけないよ。」と僕にいい、僕は果てしなく長く泣いた。母はこれを悩みに悩んで冷静を保って苦しみながら、という様子でなく、あっけらかんと言ったので、とてもかなわないなと思った。愛という人間の属性は凄まじいなと思った。誇らしく思う。

(via toukubo)

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