その後、2004年に「南海キャンディーズ」として「M-1グランプリ」で決勝に行くことができ、そこから一気にお仕事をいただけるようになりました。また、ありがたいことにお笑いブームもあって、名だたる番組にも呼んでいただけるようになったんです。

 そして、翌年2005年も「M-1」で決勝に行くことができました。ただ、正直、その年は勢いというか、話題性先行で残れたのでは…というのは、自分でもうっすら思っています。ネタのクオリティーも04年よりはるかに低かったし。そして、決勝でこれでもかとスベッて、圧倒的な最下位になりました。前年とは逆に、あんなに大きな場でこれでもかと「面白くない」というレッテルを貼られた。そう考えて、どんどん心が病んでいったんです。

 その頃は、劇場でもずっと非常階段にいましたしね。自分らの出囃子が鳴ったら、非常階段から舞台までダッシュで移動して、ネタが終わったら、スカーフだけ取って劇場を飛び出す。人と会う可能性を最小限にするために。他にも、仕事が本当につらかったのか、全く無意識のうちに仕事場と逆方向の、実家に向かう電車に乗っていたり。

 あと、当時は、食事をとるとか、人間にとって生きる上で必要な行動をとっている時はイヤなことを考えなくてもいいというルールを心の中で作っていたんです。食事をとらないわけにはいかないし、この時間は食事に充てているんだから、ネタ作りとか仕事関連のことができていなくても仕方ないと。そして、ある夜、ハッと気づいたら、知らないうちにでっかいピザを2枚注文して食べてたんです。食事をしているからイヤなことは考えなくてもいいという状況を体が無意識に求めたのか…。そんなことが重なって、もうダメだと思ったんです。これは、もう、この仕事を辞めるしかないと。

 決めてすぐ大悟さんに話しに行きました。「辞めることにしました」と。そうしたら、大悟さんが「そうか、分かった。ま、お前の考えたことやからな」とあっさり認めてくれたんです。「ただ、今までさんざん飯も食わせてきたし、お前にオファーした『千鳥』の初東京トークライブくらいは、約束やから出てくれや」と。それは「千鳥」さんが初めて東京でオールナイトライブをやるという大きなイベントだったんですけど、前々からお話もいただいていた件だし、そのイベントとそこまでに決まっている仕事だけやって、芸人を辞めようと思っていたんです。

 そして、ライブ当日。朝から別の番組収録とかもあったんですけど、やっぱり全然ダメなんですよ。自信も失ってるし、ウケない。やっぱり、今日で辞める。より一層、思いを強くしてライブ会場に行ったんです。

 そんな気分で会場入りしてますから、イベントが始まっても本当にダメなんですけど、すぐ大変なことに気づいたんです。大悟さんがしゃべるエピソードトークの主人公が全部僕なんです。「こいつ、この前、こんなことがあって。●●とか■■とかいろいろあって、最後、お前、どんなこと言ったんやったっけ?」とフラれて、僕が一言言うだけでドカンとウケるんです。ほとんどのエピソードトークが僕が「はい」って答えただけでも爆笑が起こるまで大悟さんが練り上げてくれているんです。しかも、中山功太とかネゴシックスとか、僕の同期も出ていたんですけど、彼らがするエピソードトークも、全部僕が主役なんです。大事な、大事な「千鳥」さんの東京での初トークライブなのに、結局、最初から最後まで僕の話しか出なかったんです。

 ライブ終わり、大悟さんが楽屋で「こんなに面白いヤツが辞めていいんか」と。泣きそうなのを必死にこらえながら「…続けます」って言ったら、一言、大悟さんが「じゃ、おかえり」と。

 このライブがなかったら、僕は、絶対に、絶対に、辞めてました。今まで「辞める」という言葉を人に言ったのは大悟さんだけです。大悟さんが、最初で、最後になると思います。

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