秦はもともと中国の西北辺境に暮らす民で、おもに牧畜をおこなっていたという見方が有力である。天下をおさめた周王室が衰退、国々が争いみだれたのが春秋・戦国時代(前770~221)だが、この初期に諸侯の列へくわえられた。

一変したのは、商鞅(しょうおう。?~前338)による改革のため。衛(えい)という小国の王族出身で本名は公孫鞅というが、のち商の地をあたえられたので、こう呼ぶ。孝公(在位前361~338。この時代は、まだ王を名乗っていない)につかえ、いまだ辺境の一国にすぎなかった秦を法治国家へと変貌させた。村落をまとめて「県」という行政単位をつくり、中央から派遣した役人に治めさせる、ばらばらだった度量衡(長さ・容積・重さの単位)を統一するなど、のちに始皇帝がおこなった政策は商鞅に起源を持つものが多い。

商鞅はきわめて厳格に法を用いる人物で、君主の一族や貴族でも容赦なく罰した。そのため恨みを買うことふかく、孝公が没するや、ただちに失脚、いのちを狙われる身となって逃亡する。その途次、ある宿屋に泊まろうとしたものの、断られてしまった。

「商鞅さまの法では、身もとがわからない者を泊めると、罰せられることになっておりますので」。

みずからつくった法によって追い詰められたかたちとなり、結局は車裂きの刑という悲惨な最期を遂げてしまう。

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