劉協は玉座を降りた。帝位を「献じた」ことで後世「献帝」と呼ばれるようになる。彼は退位後も皇帝だけが使える一人称「朕」(ちん)の使用を認められ、妻の曹節とともに山陽県(現在の陝西省)に移住して余生を過ごす。そして234年に54歳で世を去るが、それは偶然にも漢の再興のために戦い、陣没した諸葛亮の没年と同じ。54という享年までもが同じだった。
時は流れて5世紀、永嘉の乱(えいかのらん)で献帝の子孫はことごとく殺されてしまった。だが、その子孫の一部は生き延びて各地へ逃れ、なかには日本へ渡来した者もいたといわれている。献帝の子孫と称した人のひとりが、あの比叡山延暦寺を開いた伝教大師・最澄(さいちょう)である。