曹操は劉協の妃(きさき)らを反逆の罪で処刑したうえで、自分の娘の曹節を娶らせて帝の義父となり、さらには「魏王」の座についた。ついに漢の下に「曹王国」が誕生したのである。
建安25年(220年)1月、曹操は66歳で亡くなるが、曹一族の支配はゆるぎない。曹丕(そうひ)は魏王の座を継ぐと、年も改まらぬ8月には劉協に禅譲(ぜんじょう)を迫った。禅譲とは帝位を譲り渡すということである。劉協は40歳になっていた。不惑というには、あまりに過酷すぎた。事実上の簒奪(さんだつ)だが、実権もない彼は従うほかはない。曹丕は勿体つけて二度も辞退してから「禅譲」を受けるというパフォーマンスを演じ、やっと帝位につく。
このとき、抵抗をみせたのは意外にも皇后(曹操の娘)の曹節だった。彼女の兄にあたる曹丕が使者をよこしても、曹節は伝国璽(=皇帝の印)を握りこんで、使者を激しく罵った。そんなことが数日つづいて、ついに曹節は伝国璽を投げ付けたという(『後漢書』)。