208年、襄陽(じょうよう)にいた劉備は、曹操の大軍に追われ、南方へ逃げた。このとき劉備はどうしたか。なんと「妻子を捨て、数十騎で逃げまわりながら、ようやく漢津(かんしん)まで逃げ切った」という。直前まで「民衆たちを見捨てて去るに忍びない」と言い、周囲を感動させたにも関わらず、そのザマであった。結局、置き捨てられた甘夫人と息子の阿斗(劉禅)を趙雲が命がけで救出して事なきを得る(長坂坡の戦い)。
小説『三国志演義』では、麋夫人は趙雲の足手まといになるのを嫌って井戸へ身を投げてしまう。だが正史では、麋夫人はその8年前に徐州(じょしゅう)で曹操の捕虜となり、以来消息不明になっている。曹操の屋敷に入れられたか、あるいは殺されたのか。