1956年10月23日にハンガリー動乱が勃発した。ハンガリー国民の多くがデモ行進に参加し、武器を持って立ち上がり、社会主義の打倒を目指した。アンドロポフは、この事件を「反革命、反社会主義の暴動」と非難し、ハンガリーの進歩的なナジ・イムレ政権を転覆させる陰謀を張り巡らした。
まず、アンドロポフは、ナジ・イムレに「ソ連軍のハンガリー撤退について心から交渉する用意がある」と熱意をもって伝え、「ブダペストに進駐したソ連軍が引き揚げた」という虚偽の情報を与えた。ナジが「新しいソ連軍がハンガリーに向けて進軍中との情報を得た」とアンドロポフに訴えると、「その報告は誇張されたものだ」とナジをなだめた。
しかし、実際にはソ連軍の増援がハンガリー国境を越えつつあった。11月3日になると、アンドロポフは、ハンガリー動乱の立役者だったパル・マレテル国防相をソ連軍の撤退について話があると騙して夕食に招待し、夕食の席にKGB暗殺部隊が乱入してマレテルを殺害した。
ソ連軍により反乱が抑えられると、ナジたちはユーゴ大使館に避難したが、アンドロポフは陰謀を巡らし、恩赦するとの嘘の宣誓をナジに送り、大使館から出てきたナジたちを拉致して秘密裁判にかけて処刑した。
この過程で2500人以上のハンガリー人が死亡し、冷酷な弾圧と陰謀によってアンドロポフは、西側諸国から「ブダペストの虐殺者」として知られることになった。