明治26年(1893年)まで遡る。その頃、大阪には電話が開通していたが、尼崎はまだ開通していなかった。そのため尼崎屈指の大企業だっだ尼崎紡績は、大阪の関係先と電話する為に自社で電話線のパイプを川をまたいで引っ張り、大阪電話交換局へ回線を寄付したという。この時点で、尼崎市内で電話が出来るのは尼崎紡績内のみだった。
尼崎市と商工会議所が日本電信電話公社に掛け合った結果、2億円超の債権を尼崎が請け負う形で、昭和29年(1954年)に大阪の電話回線が尼崎に引かれる事に。
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明治26年(1893年)まで遡る。その頃、大阪には電話が開通していたが、尼崎はまだ開通していなかった。そのため尼崎屈指の大企業だっだ尼崎紡績は、大阪の関係先と電話する為に自社で電話線のパイプを川をまたいで引っ張り、大阪電話交換局へ回線を寄付したという。この時点で、尼崎市内で電話が出来るのは尼崎紡績内のみだった。
尼崎市と商工会議所が日本電信電話公社に掛け合った結果、2億円超の債権を尼崎が請け負う形で、昭和29年(1954年)に大阪の電話回線が尼崎に引かれる事に。