建久4年(1193)5月、曽我兄弟の仇討ちによって、工藤祐経が殺害された。『保暦間記』によると、仇討ちの際に頼朝が討たれたとの一報が鎌倉にもたらされたと書かれている。
「頼朝死す」の報告を耳にした北条政子は、あまりのことに激しく動揺したと伝わっている。しかし、範頼は至って冷静に「鎌倉殿がいなくなっても、それがしがおります」と述べたという。
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建久4年(1193)5月、曽我兄弟の仇討ちによって、工藤祐経が殺害された。『保暦間記』によると、仇討ちの際に頼朝が討たれたとの一報が鎌倉にもたらされたと書かれている。
「頼朝死す」の報告を耳にした北条政子は、あまりのことに激しく動揺したと伝わっている。しかし、範頼は至って冷静に「鎌倉殿がいなくなっても、それがしがおります」と述べたという。