呂不韋はまず子楚に500金を与えて、交際範囲を広めさせ、自分は500金で珍奇な品々を買いそろえ、西へ向かった。秦へ着くと、華陽夫人の姉を通じて、それらを彼女に献上した。
呂不韋は華陽夫人の姉を通じて説得をはじめた。その際、特に強調したのが、「容色をもって人に仕える者は、容色が衰えれば愛も緩む」ということだった。
公子のなかで誰かを選び、義理の母子の関係を結んでおいたほうがよい。そうすれば、王が亡くなってからも、その子が次なる王になって自分を尊び、尽くしてくれる。そして、公子のなかで、子楚ほどすぐれた者はいない。
華陽夫人はなるほどと思い、安国君に向かい、子楚のことを褒めあげたうえ、泣きながらかきくどいた。どうか子楚を世嗣ぎにしてくださいと。
呂不韋は邯鄲の女のなかでも容姿と舞踊にすぐれた者を家に入れていたが、そのなかの一人が呂不韋の子をはらんだ。ときあたかも、子楚が彼女を見染め、もらいうけたいと言ってきた。
そこで身ごもっていることを内緒にしたまま、彼女を子楚に献上することにした。彼女は男の子を産んだ。これが政である。子楚は彼女を正式に夫人にした。
昭王の50年、秦は軍を出して邯鄲を包囲した。このため趙は人質である子楚を殺そうとした。呂不韋は監視の役人たちを買収して、子楚を逃がし、無事、秦の陣営まで送り届けた。
昭王が没して、太子の安国君が即位し、華陽夫人は后、子楚は太子となった。太子の妻子を殺害するわけにも、とどめおくわけにもいかないので、趙は子楚の夫人と政に護衛をつけて秦へ帰らせた。
安国君は在位3日にして没し、孝文王とおくりなされた。代わって太子の子楚が即位した。これが荘襄王である。
荘襄王は在位3年にして没し、太子の政が王位についた。政は呂不韋を尊んで相国とし、仲父と呼ぶことにした。