日本はニホンやニッポンとは読まなかった。どう言っていたのか。「やまと」と称んでいたのです。日本と綴ってヤマトと訓読みしていたのです。
ヤマトには古くは「倭」という漢字があてられていたはずです。
この「倭」を日本側(朝廷)は「ヤマト」と読むことにした。八世紀の天平年間のころには「和」の文字が定着し、そのうち日本国のことを「大和」「日本」「大倭」などと綴るようになったのです。
どうしてヤマトという呼称が広まったかといえば、初期の王権の本拠が奈良盆地の大和の地にあったからで、やがてそれが畿内一帯に広がり、さらには日本国の呼称を代行するようになったからだと思われます。ヤマトを地理的に一番狭くとれば、大和は三輪山周辺のことをさします。
奈良時代の次は平安時代ですが、そこは今度は山城国と称ばれました。ヤマシロとは「山の背」(やまのせ・やまのしろ)のことです。平安京からすると、あの奈良の山々が背になったのです。
奈良の朝廷が大和朝廷になり、その大和朝廷が律する国が「日本」になったわけでした。