寵愛する妻妾でも少しの過失で殺害され、屍は渭水へ投棄された。女官には男子と宮殿の前で裸交を命じる事もあった。死刑囚の顔の皮を剥いで歌舞をさせると、群臣を招いてその様子を見せ、これをもって喜び楽しむ事もあった。また、生きたまま牛・羊・驢馬の皮を剥ぎ、生きたまま鶏・豚・鵝を熱湯に投げ入れると、30から50を1纏めにして殿中に放つなどの奇行も行った。

宗室・旧臣・親戚・忠良の士は大半が殺害され、群臣は1日を過ごすことが、10年にも感じられた。王公で位にある者はみな病を理由に官職を辞し、帰郷を願い出た。人々は恐れ慄いたが、公然と非難出来なかったので、道路で出会えば互いに目でその不満を共有していた。

また、苻生は隻眼であったので『不足、不具、少、無、缺、傷、残、毀、偏、隻』と言う文字の使用を禁じ、これを犯した者は左右の側近でも処刑され、その数は記録出来ないほどであった。苻生が即位して幾ばくもしない内に、殺された人間は后妃・公卿以下僕隷に至るまでゆうに500人を越え、截脛(膝から下を斬り落とす)・拉脅(わき腹を圧し潰す)・鋸頸(頸を鋸で斬り落とす)・刳胎(胎児を抉り取る)の刑に処される者が相次いだ。治世の末年には、その数は千をはるかに越えたという。

苻生は阿房宮に向かう途中、ある兄妹と出会い、非礼(性行為)を為すよう迫った。彼らが拒絶すると、苻生は怒って殺害した。

ある時、群臣と咸陽の故城で酒宴を催したが、これに遅れてきた者は全て斬り殺したという。

苻生は左右の側近へ「我が天下に臨んでいることについて、汝は外からどのようにきいているかね」と問うと、側近は「聖明なる陛下が世を治めるおかげで、賞罰は明確となり、天下は太平を謳歌しております」と言うと、苻生は激怒して「汝は我に媚びを売るか!」と言い、斬り殺した。別の日、同じ質問をしたので、ある側近は「陛下の刑罰にはやや過ぎたるところがあります」と諫言すると、苻生はまた激怒して「汝が我を謗るのか!」 と言い、同じように斬り殺した。

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