Posted on 2012年8月13日 by bossインターネットはグローバルなツールである。底辺の人間が感じる「普通」と、素養や運に恵まれた人間が感じる「普通」との間に、大きなギャップがあることを可視化してしまう暴力的なツールである。インターネットやマスメディアのない頃、底辺の頭と底辺の容姿を持って生まれた人間が、似たような底辺とつるみ、似たような底辺と結婚して底辺の再生産を続ける、そんな彼らの自己認識は「普通」であった。視界に入るのが底辺ばかりなのだから、そうなるのも当たり前である。そして恵まれた頭や容姿を持ち、親や親戚や友達も恵まれた者ばかりの環境で育った人間は、自らの優れた点を奢り高ぶることなく、自分は「普通」だと認識して生きていったのだ。「グローバル化された普通基準」の持つ暴力性 (via yosie0)