頭を下げた角度で親日かどうかを測定するのなら金大中は断然「スーパー親日派」だ。それだけでない。大統領になった後に日王を「天皇」と呼ぼうと言った政治家も金大中だった。
金大中の「親日」には歴史がある。日本政府は1980年に全斗煥(チョン・ドゥファン)が率いる新軍部の下で金大中が死刑を言い渡されると、救命運動の先鋒に立った。日本政界の水面下の実力者、瀬島隆三は判決の不当性を指摘した櫻内義雄外相の手紙を持って全斗煥に会い、「金大中氏を死刑にしてはいけない。大きな国際問題になる」と圧力を加えた。日本外務省も全斗煥第5共和国政府に「非公開の死刑判決文を見せてほしい」と執拗に要求した。判決文の問題点を見つけて不当性を国際社会に知らせようという努力だった。
さらに日本外務省は81年8月10日、「全斗煥体制は軍事ファッショ政権であり、金大中事件が解決されない中で韓国を支援するのは、その国の民主化の流れに逆行する納得できない姿勢」という公文書まで作成した。また、北朝鮮の玄峻極(ヒョン・ジュングク)労働党中央委員を東京に招いて第5共和国を刺激し、全斗煥の念願である100億ドルの借款も「金大中救命」が先決条件であることを暗示した。結局、第5共和国は米国に続いて日本のこうした全面的な攻勢に屈した。金大中を無期懲役に減刑し、米国への亡命まで認めたのだ。「金大中先生を釈放すべき」と叫んできた日本の政治家と市民団体は歓声をあげた。青瓦台(チョンワデ、大統領府)の586世代(現在50代で、80年代に大学生で民主化学生運動に参加し、60年代生まれ)は信じられないだろうが、彼らの上の世代の金大中が第5共和国の死刑を免れて民主化の主役として華麗に再起したのには日本の役割が大きかった。
金大中は日本の存在感を正確に把握して彼らと友人になろうと努力した大物だった。彼は大統領になると、保守政府が「倭色」として禁止してきた日本映画・歌謡の国内公演を大幅に認めた。これで日本の心をつかんだ後「新韓日宣言」を引き出し、日本は金大中の太陽政策を支持する核心パートナーになった。