日亜化学工業社長の小川英治氏
訴訟騒動の真実を今こそ明らかにする

 これまで誰に何を言われても黙ってきました。日亜化学工業は,ものづくりの会社。クライアントにより良い製品を届けることが仕事であり,それを一途に貫いていくことこそ,当社にとって重要なことだと信じていたからです。

 そのため,中村修二氏とその弁護士の方(訴訟代理人弁護士の升永英俊氏)が,各メディアや本などで一方的に自分たちに都合の良い発言をしても,それに対して会社として何か言い返すというようなことはしませんでした。そうした言い合いなど,ものづくりの会社にとっては何の意味もありません。それより,少しでも良い製品を作ってクライアントにきちんと届けることを貫けば,きっと私たちのことを認めてもらえる。それで十分だと思ってきたのです。

 日亜化学工業は徳島という地方にある企業で,広報体制も整っていませんでしたし,マスコミへの接し方がよく分からなかったということも事実としてありました。

 当社は全くうそなどついていませんから,黙っていても,専門家の方なら真実を分かってもらえると信じていました。裁判官の方なら正しい判決をしてくれると思っていたのです。ところが,意に反して「200億円」という巨額の対価の支払いを東京地裁から命じられて驚きました。

 そこでやっと悟ったのです。黙っていては本当のことは世間には伝わらないということに。そこで,当社のものづくりに対するまじめな姿勢をきっと理解してくれるであろう「日経ものづくり」に対して,まずは話をしようと思ったのです。

アニールが鍵

 まず主張したいのは,青色LEDの開発の経緯です。日亜化学工業では,1989年から青色LEDの開発をスタートさせました。そのとき先行していた,当時名古屋大学教授だった赤崎勇氏などの論文を検証する実験から始めました。サファイアの下地の上にGaN(窒化ガリウム)の良質な単結晶膜を世界で初めて作ったのが赤崎氏。これが高輝度青色LEDを作る際の基本的な結晶膜になるのです。ここに応用化技術を加えて,青色LEDの量産にこぎ着けることが,当社にとっての目標でした。

 つまり当社は,先行する「公知の技術」を学習して,これを基点に開発をスタートさせることにしました。既に存在する技術とはいえ,日亜化学工業にはそのリソースがなかったからです。そこに着手したのが中村氏でした。赤崎氏の成膜の方法は開示されていませんでしたが,結果として中村氏が2年ぐらいで赤崎氏が完成させた結晶膜のレベルに追い付いたのです。

 そのために中村氏が開発したのが,「ツーフローMOCVD(有機金属を使う化学的気相成長法)」を使ったGaNの成膜装置でした。要は,当社の社員だった中村氏が1990年に出願した特許第2628404号(404特許)の装置です。これにより,赤崎氏と同水準のGaNの良質な結晶膜を作製することができました。

 これをもって中村氏は「同装置がなければ(404特許を使わなければ),低コストかつ高輝度な青色LEDが作れない」と主張するのですが,それは大きな間違いです。

 当社から言わせれば,中村氏は実用化に向かう研究のための下地を作っただけ。既に世の中に存在していた,赤崎氏が生み出したものと同じ水準の試料を,違う方法で作ることができただけなのです。

 量産までこぎ着けるには,この試料を基にさまざまな応用技術を投入することが必要でした。中でも,量産化に一番貢献した技術が「アニール」です。アニールとは「焼きなます」という意味で,こうしないと工業的に青色LEDは作れないのです。

 LEDではpn接合の半導体を作るために,n型の半導体(膜)とp型の膜とを組み合わせる必要があります。ところが,GaNはそのままではn型の膜にしかなりません。そのため,p型の膜をどうやって作るかが世界中の研究者の目標になっていました。一般の半導体はMg(マグネシウム)を不純物としてドーピング*2するとp型になります。しかし,GaNはMgをドーピングしてもp型にはならず,絶縁体になってしまいます。Mgに付いている水素がp型になることを妨げるからです。

 それをアニール,つまり600℃前後で加熱するとp型に変わること(アニールp型化現象)を世界で初めて発見しました。この温度で熱すると水素が除去され,Mgの活性を取り除いてp型になるのです。

 これを発見したのは,中村氏ではありません。中村氏とともに働いていた若手の研究員が,幸運にも偶然発見したものでした。この研究員がアニールp型化現象を中村氏に報告しましたが,当初中村氏は「そんなはずがない。間違っているだろう」と否定していたくらいです。

 既に青色LEDや,それを基にした白色LEDの市場には世界でざっと50社が参入していますが,アニールの工程なくして商品化している会社は1社もありません。世の中に全く存在しなかった技術を発明したという意味で,アニールp型化現象の発見の方が,既に存在していた平滑なGaNの膜を得ることよりも重要度や貢献度は高いのです。

「報奨」は11年間で6195万円

 もちろん,アニールだけではありません。ほかにも性能向上のための技術や量産のための技術など,当社が青色LEDや白色LEDを商品化するまでには,大勢の技術者や研究者たちの努力がありました。

 もちろん,中村氏の貢献も認めています。青色LEDを研究テーマに選んだのは彼です。公知の技術とはいえ,当社になかったリソースにもかかわらず,文献の助けや外部の研究者の方などに教えてもらいながら,2年ほどで世界のトップ水準の結晶膜を日亜化学工業にもたらしたわけですから。それで将来の量産化に向かう「たたき台」になったのは事実なのです。

 この貢献に対し,当社は中村氏にボーナスや昇給という形で報いてきたつもりです。1989年から11年間の合計で,同世代の一般社員よりも6195万円ほど上乗せして支給しました。45歳で中村氏が退職する際の給与所得は2000万円弱。決して少ない額ではないと思うのです。中村氏は404特許の発明で得た報奨は,特許出願時と成立時の合計で2万円しかないなどと言っているようですが,そんなことは決してありません。

量産に使えないツーフロー装置

 先ほども言いましたが,ツーフローMOCVD装置はあくまでもサファイアの上にGaNの結晶膜を作るためのものであって,これだけでは青色LEDにはなりません。ほかに必要な技術がたくさんあるにもかかわらず,なぜ中村氏の貢献度(配分率)だけがあれほど高く評価されるのかが理解できません。世間も誤解しているようですが,今回の訴訟は青色LED全体に対する特許訴訟ではなく,その一部であるGaNの結晶膜を作る装置の特許に関する訴訟なのです。にもかかわらず,裁判所が算出した増分利益は,青色LED全体,いや,白色LEDまで含めたものになってしまっています。

 しかも,実はツーフローMOCVD装置は効率が低過ぎて量産には使えませんでした。実験室レベルの装置だったのです。そのため,量産工程では別の方法を使ってきました。さらに言えば,ツーフローMOCVD装置に関する特許は,中村氏が特許申請する前に何件か出ています。GaNを成膜するための特許もあったくらいです。

 中村氏は1994年以降,自分で実験はしていません。周囲の共同研究者の研究成果を筆頭者(ファーストオーサー)として対外的に発表してきました。こうした地方の会社から,日本だけでなく海外の学会でも発表してきたのです。だからみんなから「スーパーマン」のように思われてきました。論文の書き方も学会発表の意味も,当社の社員はよく知らなかったのです。「自分の名前が出ているからいいか」という程度でみんな仕事をしていました。

 ここが一番の問題だったのです。地方の会社で中村氏を自由にさせておいたから。中村氏が筆頭者として発表したあれだけの量の論文は,とても中村氏が自分で行った実験だけでは作成できません。

 その結果,世間が中村氏に注目し始め,いつの間にかみんなが「404特許は青色LEDを生み出すための基本特許であって,それは中村氏が1人で発明した」というふうに思い始めたのです。裁判官の方はきちんと調べてくださると思っていたのですが,やはりこの件は技術的に分かる方に評価していただかないと判断は難しいようです。

開発中止命令など出していない

 確かに,技術者の中にはことさらに自分がやったことを強調する人もいます。しかし中村氏の場合,そういうレベルの話ではありません。本当に不可解なのは,あらぬうそを平気でつくことです。例えば,法廷で彼は「社長から青色LEDの開発中止命令が2度出た」と言っています。

 誰かその証拠を見た人がいるのでしょうか。「開発中止命令のメモが回ってきた」と中村氏は言いますが,それを誰が見たのでしょう。裁判官も弁護士も見ていないのです。それはそうでしょう。誰も開発中止命令など出してはいないのですから。

 事実,試験研究費や設備投資,開発要員の推移を見れば分かります(図)。青色LEDに関する研究を始めた1989年から,試験研究費も設備投資費も開発要員も,毎年のように増やしてきました。現実問題として,これほどの人,モノ,カネを投じておいて,開発中止命令など出せるでしょうか。

 東京地裁で裁判官の方は「貧弱な研究環境で個人的能力と独創的な発想により世界的な発明を成し遂げた希有けうな事例」であると判決時に述べました。しかし,これも納得がいきかねます。1986年に当社は10億円を使って,研究棟を新設しました。床面積1万m2,6階建てです。1989~1993年までにガス系統などを含めて4億円はするMOCVD装置を5台も購入しています。地方の企業でこれだけの研究設備をそろえていたのです。一体,これのどこが「貧弱な研究環境」なのでしょうか。

 「貧弱な研究環境」という表現は,中村氏自身が書いた本や記事,インタビューを受けた雑誌などに見られるものです。要は,自分でそう表現しているだけなのです。

気が付いたら「悪者」に

 当社を訴えたことに関して,中村氏は「日亜化学工業が訴えたから反訴した」と語っていますが,これには「裏」があります。2000年9月22日,日亜化学工業は米Cree社から訴えられました。その4カ月以上前の2000年5月1日,中村氏はCree社と雇用契約を結びました。そして,それとは別に中村氏は日亜化学工業を訴えるという契約をCree社との間で結んでいるのです*3。もちろん,中村氏はCree社からインセンティブ(ストックオプション)を受け取ってのことですが。訴訟費用もすべてCree社が負担するという契約でした。それを知った当社は,2000年12月21日,Cree社を反訴するとともに中村氏を訴えたのです。

 ところがその後,当社とCree社は2002年11月14日に和解しました。それで残ったのが,2001年8月23日に中村氏が訴えた日亜化学工業との間の訴訟だということです。

 もちろん,当社はこうした事実を資料として裁判所に提出しました。裁判所で真実を訴えさえすれば,私たちは公正な裁定がされると思っていたのです。マスコミを通じて広く世間にコメントを発表するといった発想はなく,裁判とはそういうものだと思っていました。

 中村氏は,当社で青色LEDの開発を提案した本人ということから,世間に対して当社の青色LED関連の発表をする窓口を務めていました。加えて,先述のようにファーストオーサーとして論文を発表してきました。学会に訪れた研究者たちは,その内容が実は日亜化学工業の多くの技術者たちが成し遂げたものではなく,中村氏が1人で実現したものだと思ってきたのです。そうした外部への発言が,彼を「スター」に祭り上げ,いつの間にか世の中は,中村氏が発言したことを鵜呑うのみにするようになってしまったのです。

 ものづくりは日々改善が必要で,3日もさぼればすぐに他社に追いつかれ,追い越されてしまいます。だから,中村氏が何を言おうが,相手にせずにものづくりに力を入れる方を当社は選んできました。その結果,世間からは「日亜はなんてひどい会社なんだ」などと思われてしまいました。このままではこれまで青色LEDや白色LEDの開発に尽力してきた当社の多くの技術者や研究者たちが,あまりにもかわいそうです。

 いったん,イメージが付くとそれをぬぐい去るのは大変かもしれません。でも,これからは世間に対して説明し,理解してもらえるように発言していくつもりです。(聞き手=近岡 裕)

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