平安時代後期に活躍した源義家こと「八幡太郎義家」という武将の伝説が残っている。

 義家は朝廷の命により「前九年の役」(1051年~1062年)と「後三年の役」(1083年~1087年)で2度に渡って奥州(東北地方)の平定に赴いている。その奥州遠征のおりにこの納豆は誕生したというのである。

当時の軍馬の飼料は煮豆で、それを藁で編んだ俵に入れて馬の腹にくくりつけて運んでいたのだが、ある時、俵を開けてみれば、馬の体温で良い具合に温められた煮豆が不気味にも糸を引いた「納豆」になっていたというのである。そして勇気を出して恐る恐る食べてみると、それが意外に旨いとなって、義家に献上し晴れて「納豆」は兵糧食となったと言われている。

ついでに言うならこの時、家来が義家に“納めた豆”だから「納豆」と呼ばれるようになったとの異説もあるが定かではない。ただ義家が奥州平定の帰途、「秋田」を起点とし「茨城」を通った道筋には義家伝説と供に「納豆」の名産地が数多く点在していることを考えれば、少なくとも義家は納豆の伝道師“納豆サムライ”であることは間違いなさそうである。

 またその「前九年の役」で義家に滅ぼされ、太宰府に流された安倍氏が九州に「納豆」を伝えたと言われており、実際関西から西では広がらなかった「納豆」が、昔から九州各地で食べられていることを考え合わせると実に興味深い。

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