富士川の戦い後、頼朝は戦いを有利に進め、文治元年(1185)3月の壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした。ところが、頼朝は弟の義経と対立し、ついに討伐することを決意した。

 一方の義経は同年、朝廷から頼朝追討の宣旨を与えられた。この事態に対処すべく、頼朝は代官として舅の時政を京都に送り込んだ。時政は、京都守護と称された。

 時政が大軍を率いて上洛すると、朝廷は直ちに態度を豹変し、頼朝に義経追討の宣旨を与えた。これにより、頼朝は朝廷から義経を討つ、揺るぎない根拠を得たのだ。

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